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- 2020.01.02 Thursday
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Spiritual Art
Cosmos Sound Mandala II Cinnabar red
Showzi Tsukamoto
【コスモス・ヒビキ・曼荼羅 II】
辰沙の朱 塚本尚司 作
塚本尚司「日本列島の先住民族であるカタカムナ文明のアシヤヒト(葦屋人)の子孫である縄文人が、中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)の断層地帯である大和を流れる吉野川の川底にたまっていた丹=辰沙を採取していたことを裏図ける『古事記』の説話の一節です。
『古事記』『自其地蹈穿越幸宇陀 故 曰宇陀之穿也』
『さらにそこから山坂を踏み分け越えて、宇陀にお進みになった。そこで、そこを宇陀の穿(うかち)というのである。』
宇陀の穿(うかち)は、現在の奈良県宇陀市菟田野(うたの)区宇賀志(うがし)付近のことであると言われている。
宇陀の地には、大和の吉野川が、中央構造線に沿って流れている。
『古事記』『故爾於宇陀有兄宇迦斯自宇以下三字以音下效此 弟宇迦斯二人』
『ところが、この宇陀に兄宇迦斯(エウカシ)、弟宇迦斯(オトウカシ)の二人の兄弟がいた。』
エウカシはイワレビコ(神武天皇)を迎え撃とうと言って軍勢を集めたが、軍勢を集めることができなかったので、お仕えしましょうと偽って、大きな御殿を作り、その御殿の中に罠を仕掛けて待っていた。
オトウカシがまずイワレビコ(神武天皇)をお迎えに参って、拝礼し、≪私の兄のエウカシは、天津神の御子の使いを射返し、迎え撃とうと して軍勢を集めましたが、集めることができなかったので、御殿を作りその中に罠を仕掛けて、待ち受けてあなたを殺そうとしています。≫と密告したので、イワレビコ(神武天皇)の使者達が太刀の柄を握り、矛を向けて弓に矢をつがえて、エウカシを御殿の中に追い入れました。
するとエウカシは、自分が作った罠の押機に打たれて死にました。
そこでイワレビコ(神武天皇)の使者達は、エウカシの遺体を外に引きずり出し、切り刻みました。そして、エウカシの血が流れて宇陀の地を赤く染めた。
『古事記』『故 其地謂宇陀之血原也』
『そこでその地を宇陀之血原(うだのちはら)という。』
宇陀之血原という場所の名前は、まさに、中央構造線の断層地帯に位置する宇陀の丹=辰沙の鉱床の露頭部が崩れ落ち、丹=辰沙の塊が砕けて、鮮血のような赤色の細かい砂状の丹=辰沙が大和の吉野川の川底にたまっている場所の状況が血の原のようであったことを表わしていると想われます。
紀元前660年(弥生時代)に丹=辰沙を採取していた宇陀之血原は、現在の奈良県宇陀市に茅原(ちはら)の地名として残っている。
丹(ニ)=辰沙(シンシャ)=シナバー(Cinnabar)※ルビー色の結晶
大和の豪族の長である那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)は、イワレビコ(神武天皇)と再び戦うことになる。
このとき、金色の鳶が飛んできて、イワレビコ(神武天皇)の弓弭(ゆみはず:弓の両端の、弦の輪をかける部分)に止まりナガスネヒコの軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。
ナガスネヒコはイワレビコ(神武天皇)に
『昔、天津神の御子が天磐船(アメノイワフネ)に乗って降臨した。
名を邇藝速日命(ニギハヤヒ)という。
私の妹を娶わせて、子も生まれた。
ゆえに私はニギハヤヒを君として仕えている。
天津神の御子がどうして二人いようか。
どうして天津神の御子であると称して人の土地を奪おうとしているのか』とその疑いを述べた。
イワレビコ(神武天皇)は天津神の御子である証拠として、天羽羽矢(アメノハハヤ)と天歩靱(アメノカチユキ:矢を入れる筒)の証しを示された。
これを見たナガスネヒコは、心では恐縮したが、改心することはなかった。そして、邇藝速日命(ニギハヤヒ)は、イワレビコ(神武天皇)が天降った天孫族の正統な御子であることを知り、 またナガスネヒコは、いくら諭しても解る者でないので、遂にナガスネヒコを殺してイワレビコ(神武天皇)に服従した。
イワレビコ(神武天皇)は兵を率いて大和の吉野の地を巡り、戦に勝利したイワレビコ(神武天皇)は、その地の先住民族の縄文人と、土着の豪族の国津神を、次々に征服していったことを物語っている。
しかし、イワレビコ(神武天皇)に服従しない人達もいた。
『古事記』『自其地幸行 到忍坂大室之時 生尾土雲訓云具毛八十建 在其室待伊那流此二字以音 』
『そこからさらにお進みになり、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)にお着きになったとき、尻尾の生えた土蜘蛛(ツチグモ 土雲)という土着の豪族の八十建(ヤソタケル:数多くの勇者)達が、その岩屋の中で待ち構えていた。』
忍坂は、中央構造線の断層地帯に位置する現在の奈良県桜井市が伝承地である。
そこで天津神の御子のイワレビコ(神武天皇)御命令で、土蜘蛛(土雲)を討つ合図の歌を歌って、太刀を抜いていっせいに打ち殺し、土着の豪族達の八十建(ヤソタケル:数多くの勇者)を征伐した。
土蜘蛛(ツチグモ 土雲)とは、イワレビコ(神武天皇)に服従しない土着の豪族たちを侮辱した呼び名である。
しかも、土蜘蛛の、漢字の蜘蛛の字は、虫ヘンに知と虫ヘンに朱と書き、【朱を知る虫】という、丹=辰沙=朱を知っている土着民という意味を表わしているのです。
イワレビコ(神武天皇)の一族が、丹=辰沙=朱が採れる大和(現在の奈良県の地)に住むイワレビコ(神武天皇)に服従しない先住民族を土蜘蛛と呼び、打ち殺して征伐し、そして、決して交通の便が良い場所とはいえない奈良盆地に位置する橿原(かしはら:現在の奈良県中部の橿原市)に、大和朝廷を成立させた神武東征の目的は、実は、丹=辰沙の産地である大和の地を征服して、先住民族の縄文人から丹=辰沙を奪い取ることにあったことを物語っているのです。
天津神の邇邇芸命(ニニギ)、そして、その3代後の曽孫にあたるイワレビコ(神武天皇)の天孫族一族と、更に、イワレビコ(神武天皇)より前の時代に大和の地に天から天下っていたという国津神の邇藝速日命(ニギハヤヒ)の一族とは、カタカムナ文明のアシヤヒト(葦屋人)の子孫であるY染色体Dグループの遺伝子を受け継いだ縄文人が住む日本列島の地に、それぞれに、いつの時代に、何処から来た、どの様な渡来人なのでしょうか?」
つづく
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Showzi Tsukamoto
【コスモス・音・曼荼羅】
辰砂の朱 塚本尚司 作
塚本尚司「日本列島で旧石器時代のカタカムナ文明のアシヤヒト(葦屋人)の子孫である縄文時代の縄文人が、丹(ニ)=辰沙(シンシャ)を主に採取していた場所は、現在の本州の紀伊半島の中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)の断層地帯である。
断層地帯の辰沙の鉱床の露頭部が崩れ落ちた場所で辰沙の塊を拾い集め、また、砂金と同じように比重が重い鉱物なので、辰沙の塊が砕けて、細かい砂状の辰沙が川底にたまっているものを採取し、更に、井戸を掘り下げて丹=辰沙を採取していたことを裏図けるように、先住民族の縄文人が丹=辰沙を採取していた場所などに関わりのある説話が、『古事記』の神武東征(じんむとうせい)に記載されている。
神武東征とは、天照大御神の命により、天孫族(てんそんぞく:天照大神などの子孫)の邇邇芸命(ニニギ)が葦原中国(アシハラ ノ ナカツクニ)を統治するために天上界の高天原(タカアマハラ、タカマガハラ)から日向の高千穂へ天孫降臨(てんそんこうりん)したとされる。そのニニギから3代後の曽孫にあたるイワレビコ(神武天皇)が、日向を発ち、大和を征服して、橿原(かしはら:現在の奈良県中部の橿原市)の「橿原の宮」にて、大和朝廷の第一代天皇として即位し建国するまでを記した説話であり、それは、紀元前660年(弥生時代)のことであるとされている。
葦原中国(アシハラ ノ ナカツクニ)とは、天津神(アマツカミ)が住んでいるとされる天上界の高天原と、死者の世界である黄泉の国(ヨミノクニ)との間にあるとされる日本の国土のことである。
『古事記』では、神武天皇は、神倭伊波禮毘古命(カム ヤマト イワレビコ)の名で登場します。実は、神武天皇という呼称は、後の、奈良時代後期(760年代)の文人である淡海三船(おうみ の みふね)により、歴代天皇のおくり名として選定された漢風の名なのです。
イワレビコ(神武天皇)は同母兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、『東に美しい土地があるという、天下を治めるにふさわしい土地であろう。東に行こう。その地を都とすべきだ。』と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成し、ただちに船で日向を発って東征に出て、河内国(かわちのくに:現在の大阪府東部)に入って進軍するが、この地を支配する那賀須泥毘古(ナガスネヒコ:大和地方で東征に抵抗した豪族の長)との戦いになったが、戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。イワレビコ(神武天皇)は≪日の神の子孫の自分が日に向かって戦うことは天の意思に逆らうことだ。≫と悟り、迂回して日を背にして戦おうとイワレビコ(神武天皇)は熊野へ向かって船を出した。途中、紀伊国で五瀬命の矢傷が重くなり亡くなった。それから、イワレビコ(神武天皇)は熊野にお着きになり上陸してから、天上から遣わされた八咫鳥(ヤタガラス)が先導して飛んで行くあとについて進軍を再開し、八咫鳥の案内で、熊野から大和の吉野川の川下にお着きになった。
大和の吉野川は、大和と伊勢の国境近くの山から流れ出し中央構造線に沿って流れている。現在の奈良県の吉野川は、和歌山県に入ると紀の川と名前を変える。
丹(ニ)=辰沙(シンシャ)=シナバー(Cinnabar)※ルビー色の結晶
先住民族の縄文人が井戸を掘り下げて丹=辰沙を採取していたことを裏図ける『古事記』の説話の一節です。
『古事記』『從其地幸行者 生尾人 自井出來 其井有光 爾問汝誰也 答曰僕者國神 名謂井氷鹿 此者吉野首等祖也』
『そこからさらにお進みになると、尻尾の生えた人が井戸から出てきた。その井戸の中は光っていた。そこで≪おまえはだれか≫とお尋ねになると≪私は国津神(クニツカミ)で、名は井氷鹿(ヰヒカ)と言います。≫とお答えした。これは吉野首らの祖先である。』
尻尾の生えた人とは、吉野地方の木こりが尾のように見える毛皮をつける習慣があるので、尻尾の生えたと表現した。
尻尾の生えた人が出てきた井戸とは、丹=辰沙を採取していた井戸である丹井(タンイ)のことである。
その井戸の中は光っていた。とは、丹井の底に溜まった自然水銀が光って見えた。ことを表現した。と想われます。
≪私は国津神(クニツカミ)で、名は井氷鹿(ヰヒカ)と言います。≫
国津神とは、先住民族の縄文人が住む地に、天孫降臨以前からこの国土を治めていた土着の神である、物部氏、等の祖神と伝わる、邇藝速日命(ニギハヤヒ)の一族である。
天津神(アマツカミ)は、天照大神などがいる高天原の神であり、天照大神などの子孫の邇邇芸命(ニニギ)、そいて、そのニニギから3代後の曽孫にあたるイワレビコ(神武天皇)の一族である。
井氷鹿(ヰヒカ)は、カタカムナ図象文字で、
と書きます。
カタカムナ言語の ヰ(ウィ)は、丹の甲骨文 と同じように丹=辰沙を表わしているのです。
丹=辰沙は井戸を掘り下げて採取していたので、丹=辰沙を採る井戸の甲骨文が、 で、丹井の中に辰沙を点で表した甲骨文が、 であり、この象形文字が漢字の丹になります。
この様に、国津神のヰヒカが使っていた言葉がカタカムナ言語であったと想われるのです。
このことは、国津神のヰヒカが、言語を持った先住民族であり、その名前から井戸を掘り下げて丹=辰沙を採取していたことが判明し、カタカムナ言語のヰ(ウィ)を通じて、天津神のイワレビコ(神武天皇)の使った言語の丹の甲骨文 とで、会話が成り立っていたことになるのです。」
つづく
Spiritual Art Showzi Tsukamoto
スピリチュアル【ピラミッド・ダイヤモンド曼荼羅】
ビビッドグリーン 塚本尚司 作 版画
塚本尚司「超古代の日本列島に存在していたカタカムナ文明の二分心(バイキャメラル・マインド)の心を持ったアシヤ(葦屋)人は、アシヤヒトと呼びます。
カタカムナ図象文字で、アシヤは、
と書きます。
アシヤとは、最高霊の根源の力の示し(アシ)が極限(ヤ)に進んで、目には見えない僭象界から現象界へ日の出のように現れたもの。の思念を表わしています。
カタカムナ図象文字で、ヒトは、
と書きます。
ヒトとは、根源の生命エネルギー(ヒ)の陰陽がヒトツに重合、統合(ト)して誕生した生命。の思念を表わしています。
カタカムナ文明の民族のアシヤヒト(葦屋人)は、最高霊の根源の力の示しである生命エネルギーの陰陽がヒトツに統合して日出づる様に誕生した人間(アシヤに住むもの)である。という意味である。
アシは、葦(アシ)に象徴されて、日本の神話【古事記】には、葦の記述が数多くあります。カタカムナ言語のアシハラ、トヨアシハラを葦原、豊葦原と漢字に翻訳して日出づる日本の国土を指す言葉としています。
カタカムナ図象文字で、アシハラは、
と書きます。
アシハラは、最高霊の根源の力の示し(アシ)が、天地、陰陽が親和して繋がって現れたもの(ハラ)。の思念を表わしています。
葦(アシ)の記述が古代エジプトのピラミッド・テキストに数多くありました。
第253章『ある者が葦原(アシハラ)で清めに浄めた。ラアが葦原で清めた。
ある者が葦原で清めに浄めた。これなる王が葦原で清めた。
これなる王の手はラアの手である。ヌートよ、これなる王の手を取れ。
シューよ彼を持上げよ。シューよ彼を持上げよ。』
第303章『西の神々よ、東の神々よ、南の神々よ、北の神々よ、これら四艘
の清浄なる葦(アシ)の舟を、汝らはオシリスのために整えたり。』
葦原で清めに浄めた。清浄なる葦の舟。の記述の様に、古代エジプトでは、葦は最高霊の根源の力の示し(アシ)の象徴であり、葦には清浄なる霊力があると信じられていたことを物語っているのです。
カタカムナ文明の民族であるアシヤヒト(葦屋人)を、私の夢を通じて想念しますと、
メソポタミアの地に紀元前3800 年頃、高度の文明を築き繁栄したシュメール文明のシュメール神話【ギルガメシュ叙事詩】の中で、大洪水から生き残ったウトナピシュテムがギルガメシユに、大洪水の隠された事柄について語った神話に行き当たりました。
ところで、このシュメール文明、シュメール神話の日本語の表記のシュメールは、実は、古代バビロニアのアッカド語(古代メソポタミアの地域のアッシリア人やバビロニア人の言語)の原音は [スメル Sumer]であり、日本のシュメール学の学者が、天皇を呼称する古語スメラミコトがスメルのミコトのことであるといった俗説を避けるために、 [スメル Sumer]をシュメールと長く伸ばして日本語で表記する慣習にしたということですので、以後は、私は、シュメールを原音のスメルと表記することにしました。
【ギルガメシュ叙事詩】の『地上に繁殖した人類が騒がしく秩序を乱しているので、地上からこの障害を取り除く為に、風と嵐の神エンリルが神々を召集して、人類を絶滅させるために大洪水を起こす決定をした。そこで、エンリルの兄弟神である智恵と魔術と淡水を司る神エンキは大洪水から人類を生き延びさせるために、エンキは、葦屋(アシヤ)の壁を通して、人間(アシヤに住むもの)のウトナピシュテムに人類に迫る危機をこっそりと聞かせ、そして、【7階建ての方舟(ハコブネ)】の作り方を教えた。ウトナピシュテムは方舟を作り、家族、すべての技術者、すべての生物の種を方舟に乗せた。すべての光が暗黒に変わり、大地は崩壊し、大洪水が大地を襲い人類を破滅させた。大洪水は【7日7晩】続いた。洪水が引いた後、ウトナピシュテムは、鳩や燕やカラスを飛ばして洪水後の地上の様子を確かめさせた。そして、水が引いて方舟はニシル山に漂着した。ウトナピシュテムと彼の妻は、神々と同じ永遠の命を与えられ、遥か遠くの河口に住むよう命じられた。』
このスメル神話の『智恵と魔術と淡水を司る神エンキが、葦屋(アシヤ)の壁を通して、人間のウトナピシュテムに人類に迫る危機をこっそりと聞かせた。』の記述は、実は、二分心の脳(バイキャメラル・ブレイン)を持ったアシヤヒト(葦屋人)が神の声を幻聴する様子を表わしていて、この葦屋(アシヤ)に住む人間が、まさに、アシヤヒト(葦屋人)のことであり、スメル神話の大洪水に登場する方舟に乗ってニシル山に漂着したウトナピシュテムと彼の妻は、実は超古代の日本列島に存在していたカタカムナ文明の二分心(バイキャメラル・マインド)の心を持ったアシヤヒト(葦屋人)のことであったのです。
ところで、アシヤ(葦屋)に類似している名称のアジアは、現在のヨーロッパを除くユーラシア大陸全般を指した名称ですが、アジアの語源は、紀元前11世紀から紀元前7世紀の頃の地中海東部に栄えたフェニキア人が、太陽が昇る東方の地域をアッカド語で、日が昇る地方の意味の「アスasu」と呼んだことに由来し、のちに「アスasu」に接尾語「イアia」を付けて、後にラテン語の「アジアAsia」に変化したといわれています。
アジアとは、実は、アシアであり、カタカムナ図象文字で、
と書きます。
アシアとは、最高霊の根源の力の示し(アシ)が日出づる様に現れる(ア)。の思念を表わしています。
これらのことから、アジアとは、スメル神話の大洪水が起こることを事前に神の神託として幻聴した二分心の脳(バイキャメラル・ブレイン)を持ったアシヤヒト(葦屋人)が、超古代の日本列島から逃れて中東に移住し、スメル文明などの古代文明を起こした日出づる東方の地域を指している。と、私は想念しています。」
つづく
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